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ポピュリズムとデモクラシー~民主主義の動揺

1、ポピュリズムは、マスコミでは「大衆迎合主義」と置き換えられているが、いま一つ納得できないところがあり、いろいろ文献にあたってみると、学者も間でも一義的な定義づけはできないようである。ここではポピュリズムの定義を問題とするのではなく、デモクラシーとの関係を問題とすることから、定義については触れないこととする。一方、デモクラシーは、一般的には「民主主義」と訳されているが、これもわかったようでわからない置き換えである。というのも、「民主主義」では、一つの理念であり、正当性が付与された理想のようにも思われるからである。また、「民主主義」という言葉には、ギリシャの民主制における為政者に対する弾劾裁判や、フランス革命における支配階級や対立勢力に対する大量虐殺(ジェノサイド)や、アメリカ独立における先住民族への弾圧など、人間同士のエゴのぶつかり合いのような印象もあり、なにか得体の知れない、いかがわしいものに見えてくる面がある(長谷川三千子「民主主義とはなにか」文春新書 52頁以下など)。したがって、ここではデモクラシーを現実の政治の制度としての「民主制」の意味で使うこととする(佐伯啓思「反・民主主義論」新潮新書 102頁など)。

 

2、ところで、民主制ないし民主主義については、「独裁政治が成立するのは、民主制以外の」どのような国制からでもない」(ソクラテス)とか、「これまでも多くの政治体制が試みられてきたし、またこれからも過ちと悲哀にみちたこの世界中で試みられていくだろう。民主主義が完全に賢明であると見せかけることは誰にも出来ない。実際のところ、民主主義は最悪の政治形態と言うことが出来る。これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けば、だが。」(ウィンストン・チャーチル)などと言われ、負の側面を持っているようである。また、一方、ポピュリズムについては、「ポピュリズムは、デモクラシーの後を影のようについてくる」(マーガレット・カノヴァン)と言われているように、なにかデモクラシーにとって胡散臭いイメージもあるようである。このように、ポピュリズムとデモクラシーにはなにか切っても切れない関係がありそうなので、この関係を考えるために、まず近代民主主義に遡ってその意味を考えた上で、現在の民主制ないし民主主義について考えていくこととする。

 

3、近代民主主義については、これを自由主義と民主主義という異質な思想の混合物として捉え、一方には、人権の擁護、個人的自由の尊重という法の支配による自由主義の伝統があり、他方には、平等、支配者と被支配者の一致、人民主権を主要な理念とする民主主義の伝統があるとする考え方がある(カール・シュミット、シャンタル・ムフ)。これは近代民主主義の「二縒り(ふたより)理論」と呼ばれているもので、デモクラシーを、自由主義の立場から解釈すると、人民主権を認めつつも、議会制を通じたリベラルな統治のあり方とそれによる権力の制限を至言とする立憲主義的なものになり、民主主義の立場から解釈すると、統治者と被治者の一致や人民の自己統治、ないし直接的な政治参加の原則によるものになるということであり、この二つの立場から、ポピュリズムをみると、自由主義の立場からはポピュリズムを警戒するようになり、民主主義の立場からはポピュリズムに民主主義の真髄を見出すことになる。

 

4、ポピュリズムの歴史的起源は、アメリカ南部・西部諸州の農民が大企業や政府の権威的な振る舞いに対して反旗を翻して行った農民運動が、社会改革運動に発展して1891年に人民党(後に民主党に合流)の結党にいたったことにあるとされている。その後、アメリカにおいては、エリート階級の固定化を嫌う「反知性主義」(権威化する知性への懐疑)の流れが生じたことからもみてとれるように、ポピュリズムは、大衆への迎合というよりは、置き去りにされ忘れ去られた大衆の反逆という観点から捉えたほうがわかりやすくなる(週刊東洋経済 2016.12.24 特集「ビジネスマンのための近現代史」 53頁)。そうすると、大衆の反逆をうまく捉えて大きなうねりにしていくのがポピュリズムであり、ポピュリズム的手法であり、ポピュリストであるということになるのではないだろうか。この意味において、ポピュリズムは、イデオロギーないし政治思想とはいえなくなり、権力やアイデンティティーを国家に集約させることで様々な問題の解決を図る政治思想、社会思想であるナショナリズムとは異なるものと言えそうである(国末憲人「ポピュリズム化する世界」59頁)。この延長で考えていくと、ポピュリズムは、大衆の直接の政治参加、いわゆるラディカル・デモクラシーに行き着くことにもなり、近代民主主義の二つの思想の中、民主主義の思想の流れにあることになる。したがって、ポピュリズムは、なんらデモクラシーと矛盾するものではなく、むしろデモクラシーの本質に根ざしたものというべきことになり、問われるべきは、どの運動がポピュリズムであるかということではなく、「ある運動がどの程度ポピュリズム的であるか」(エルネスト・ラクラウ)ということになる。

 

5、翻って、日本の政治状況をみてみると、一時期の民主党政権が打ち出した政治主導はよかったが、統治から官僚を排除することを政治主導と錯覚したために混乱が生じて挫折してしまい、民主党政権を挟んで自民党政権に落ち着く過程において、政党政治が形式主義的な多数支配に変質してしまったように思われる(山口二郎「日本における民主政治の劣化をめぐって」論究ジュリスト 09 特集 憲法”改正”問題 67頁)。現在は安倍1強政治であるが、安倍首相自身、「政治は現実だ。やりたいことを成すためには51対49でも勝つことが大事なんだ」と保守派の議員に繰り返し強調していると報道されているように(日本経済新聞 2019.3.7)、多数決における多数意思の絶対化という現象が広がっている。このような現象は、英国のEU離脱における国民投票や、日本の大阪市における住民投票の例において顕著にみられる。しかも、その手法は、マスメディアだけではなく、ツイッターやフェースブックなどのSNSを駆使した一般大衆との直接的なものになっている。客観的な事実よりも、個人の感情や信条に訴えかける情報が、瞬時に不特定多数の人々の間をかけめぐるようになり、オックスフォード英語辞典が2016年の「今年の単語」に選んだ「ポスト真実」ともいえるような状況になっている。さまざまな情報が蔓延し、情報過多てある一方、現在の日本やアメリカ、とりわけEUにおいて見られるように、高度に官僚化された政治機構を前にして、一般の大衆はなんらの決定権を持たないことから、次第に不満がたまっていくことになる。このような状況が、ポピュリズムないしはラディカル・デモクラシーを生みやすくなり、ポピュリズム的手法が効果的になってくる。ポピュリズムが勢いづくのは、左派政権の南米諸国においても、「移民排除」「政教分離」「男女平等」をかかげ反イスラムを訴える右派の国民戦線マリーヌ・ルペンが今度の大統領選で注目されているフランスなどEUにおいても同様の現象であり、結局、グローバル化により資本と情報が瞬時に世界をかけめぐる社会において、一部のエリート特権階級と一般大衆との社会的隔絶が原因となっているものである。

 

6、ポピュリズムについては、「民主主義の不均衡を是正する自己回復運動のようなもの」(吉田徹 日本経済新聞 2017.1.1「春秋」欄)とも言われるが、「ディナー・パーティーの泥酔客(それも正論を吐く)」(水島治郎「ポピュリズムとはなにか」中公新書 231頁)に例えられるように、扱い方によっては大混乱になることもあるので、単純に排除すればいいというものでないことだけは確かである。そこで、もう一度、近代民主主義の原点に立ち帰って、自由主義的な諸価値である、普遍的な人権保障、法の支配、適正手続の保障などの立憲主義の原理と衝突しないように、ポピュリズムの民主主義的効用を引き出せるような観点からの議論が大切になってきているといえる(山本圭「ポピュリズムの民主主義的効用」参照。なお、この論文は非常によくまとめられたわかりやすい論文なので負うところが多く、一部を引用させていただいている)。

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