人間の一生は、誕生から死亡まで、家族・学校・家庭・会社・地域社会・国家・外国と関わりを持ち、それぞれの段階で様々な法律関係を結び、その維持・継続や解消を繰り返しますが、必ずなんらかの相談者を必要とします。

中村法律事務所

nakamura law office

お気軽にお問い合わせください

082-221-0678

お問い合わせフォーム

[受付]平日 8:30〜17:00 ( 夜間、土日祝日のご相談は事前にご連絡ください 。メールでのご相談は無料。)

HOME > インフォメーション

たかがゴルフ、されどゴルフ、さらばゴルフ

1、今回は趣味の話にします。私は昭和57年に弁護士登録しましたが、昭和62年ころから平成14年ころまで15年間くらい趣味としてゴルフをやっていました。もともと小学校4年のころから父親に連れられて練習場やコースにも行っていたため、我流でしたがすぐに感覚が戻ってきてめきめき腕を上げていきました。趣味とはいえ、私の場合はあくまでも競技ゴルフに徹しました。当時は今とは違って弁護士を取り巻く経済的な環境も比較的余裕のある時代だったため、自分なりに多くの時間をゴルフに裂くことができました。当時、広島弁護士会には「ひまわり会」というゴルフ同好会がありましたが、ここで多くの先輩方と知り合い、公私にわたって鍛えてもらいました。とりわけ、ある有名プロゴルファーの顧問をされているO先生の一言で壁が破れ、シングルになれたことが大きな転機でした。その一言とは、「右膝が緩んでる」ということでした。私の場合、右膝が突っ立ているかたちになって緊張感がないため、スイングに上下動が起き、ダフリやトップの原因になってショットが安定していなかったことです。右膝を内側に絞り込むようにして緊張感を持たせることで上下動がなくなり、インパクトでの右足の蹴りも生まれ、ゴルフが見違えるほどよくなりました。また、オフィシャルハンディがシングルになってからオフィシャルクラブで知り合ったU氏の存在が私のゴルフの上達にとって決定的なものとなりました。U氏は地場の企業の社長さんで、当時オフィシャルハンディは2の方でした。U氏とのラウンドでいろんなアドバイスを受け、大きな刺激を受けました。その結果、どんどんハンディーが上がっていき、オフィシャルハンディは4になることができました。調子のいい時は自分の背中が見えるような感覚にもなりました。少し自慢になりますが、オフィシャルグラブのマンスリー(月例会)では数回、三大競技の理事長杯でも平成8年9月に一度優勝させてもらい、ホールインワンもオフィシャルクラブのコースで3回ほど達成できました。スコアも、慣れているオフィシャルコースのレギュラーティーからであれば、72のパープレーをはじめ、74とか75はよく出ていました。初めてのコースでもハーフで35とか36のパープレーもあり、ゴルフを通じていろんな面で自信となっていきました。しかし、右膝に負担がかかりすぎたことから右膝の変形性膝関節症になり、腰もメンテナンスをせず、我流の筋トレをやっていたこともあって何度もぎっくり腰になり、仕事も忙しくなってきたことから、到底ハンディを維持できなくなり、次第にゴルフから遠ざかり、結局やめてしまいました。ちなみに、ハンディ4を維持しようと思えば、毎日の素振りと少なくとも週1回の練習場通い、それに年間60ラウンドくらいはコースに出なければならず、体に支障が生じてきたこともあって、メラメラと燃えるようなゴルフ熱が冷めていきました。

 

2、ゴルフはプレィヤーの個性がにじみ出るスポーツなので、一般的で標準的な上達法というものがあるわけではありませんが、私の経験を踏まえてシングルになりたいと思っている人にアドバイスするとすれば、次のようなものになります。まず、ベン・ホーガンの「モダンゴルフ」という本を手にとって読んでください。ウイークグリップの勧めとともに、スタンスとボールの位置の関係、それにスイングの軌道を平面としてみたスイングプレーンというものがあることに気づかされます。グリップはゴルフクラブとプレイヤーを結びつける非常に大切なところなので、一度変な癖がつくとなかなか変えられなくなるので気をつけてください。飛ばそうとすると、右打ちの人は右手に力が入り、どうしても右手がかぶってくるストロング(フック)グリップになります。これがフック病の原因になってきます。ウイークグリップはその欠点を矯正するもので、飛距離は落ちますが方向の正確性は増してきます。ゴルフは、アマチュアの場合、ミスをできるだけ少なくするゲームですので、このグリップをお勧めします。もっとも、ウイークグリップをマスターすると、今度はもっと飛ばしたいという欲にかられて、次第にストロンググリップ気味になっていきますが、この欲との戦いが最後まで続いていくことになります。また、スタンスとボールの位置もグリップと同じくらい大切で、図解しないと正確には伝わりませんが、大雑把に言うと、ドライバーの時がスクウェアースタンスで左足かかと線上にあるボールが、サンドウェッジの時にはオープンスタンスで右足かかと線上にくるまで、徐々に変化し移動させていくことになります。これは、自分の感覚でやっていくしかありません。そして、スイングプレーンですが、その人によってプレーンの角度は違ってきますが、自分なりのスイングプレーンはあるはずで、それを見つけるように意識していかなければなりません。

 

3、次に大切なのが素振りです。練習場で実際に球を打つのと同じくらい大切です。なぜかと言えば、スイングは一定のリズムとテンポをもった一つの大きな流れであり、球を打つとどうしてもインパクトに力が入り、フォロースルーが疎かになっていきます。インパクトはスイングの通過点に過ぎず、フォロースルーからフィニッシュまできて初めてスイングが完了することになります。素振りで気をつけなければならないことは、インパクトゾーンをできるだけまっすぐにすることと、体重移動をしてフィニッシュでは左足に全体重がかかるように心掛けることです。この時、スイングプレーンがどの程度傾いているかによって、球筋がドロー系になったりフェード系になったりします。正確性の点でフェード系の球筋がおすすめです。いわゆるスライス病は、スイングの軌道がアウトサイドインになっているため、インパクトでフェースはまっすぐでもカット打ちのようなかたちになり、ボールにスライス回転がかかるためです。スイングの軌道をできるだけまっすぐなものにすれば治ってくると思います。この要領で練習場で打ってみますが、思うような球筋が出なければ、その原因がグリップの緩みにあるのか軌道にあるのかを考えて、その練習場で直してしまわなければなりません。前出のベン・ホーガンは大変なメモ魔で、練習場でも気づいたことを事細かにメモしたとのことで、われわれもコースに出たときはもちろん、練習場でも気づきはメモしておきたいものです。練習場では、常に、グリップ・スタンス・ボールの位置に気をつけながら、クラブの番手による飛距離の違いをできるだけ正確に測るようにしなければなりません。また、コースでは、練習場で打てない球は決して打てないことを肝に銘じておくべきです。インテンショナルフックやスライスだけでなく、トラブルショットも、たとえば木の幹が邪魔になってアドレスが取れない時のために、逆さ打ちを練習しておくといいでしょう。

 

4、私がゴルフをしていた時は、ロングアイアンからユーティリティへの過渡期で、個人的にはロングアイアンにこだわりを持っていましたが、クリークは3番アイアンの代わりに多用しました。200ヤード(現在はメートル表示になっているが)先のピンを直接狙えるので重宝しました。今ではいろんなユーティリティが出ているので、気に入ったものはどんどん取り入れていくべきだと思います。アイアンショットについては、私の場合5番アイアンで丁度ボールの位置が両足かかとの中間地点にくるようにアドレスし、ボールの先でターフをとるようにしていましたが、4番以上はスゥィープショットすなわち払い打ちをするような感じで打っていました。また、バンカーショットが最初のころは苦手でバカにされ随分悔しい思いをしましたが、バンカーショットのためだけに練習場に通った時期もあったおかげで、一番得意なショットの一つになりました。バンカーショットのコツは、手のひらの中でクラブのグリップを回してクラブのフェースを開き、フェースのエッジの向きをピンに合わせるようにスタンスをとり、Vの字を描くようにアーリーコックでバックスイングをして、ボールの少し手前にクラブのバンスを打ち込めば楽にボールを出すことができます。ピンに寄せていくためには、アゴの高さ、ピンまでの距離と傾斜や芝目、砂質の違いによって、フェースの開き加減やスイングの大きさ、フォロスルーの取り方を調節していくことになります。ライが悪い時のショートアプローチのコツとしては、クラブのトゥーの部分で打つとダフらないので、パターのときのように少し吊り上げるように構えると打ちやすいです。さらに、どうしてもドライバーで飛ばしたいときの打ち方としては、長尺ではなく少し短尺のドライバーで、高いティの球を野球のバットを振る感覚で少しアウトサイドインに思いっきり振りぬき、力強いフェード(パワーフェード)の球筋にするのも一つの方法だと思います。かなり個人差もあることなので、自分自身でいろいろ試してみてください。いずれにしても、ゴルフにのめり込むときりがなく、時間とお金と丈夫な体がないと続けていくことはできません。私にはいずれも限られてきていますが、ゴルフに対する興味自体がなくなってしまいました。

 

5、ゴルフはメンタルなスポーツで。その日の体調や気分にもよりますが、ラウンド中のショットの度毎でもショットの良し悪しが変わってきます。決して調子にのらず、また、悲観することもなく、最後まで慎重に一打一打に集中していかなければなりません。最終ホールまでいいスコアできて、最後のティーショットでOBを打ったとしても、すぐに気分を切り替え、番手をアイアンにでも代えて打ち直すことができればそんなに大たたきすることはないでしょう。よくゴルフは人生の縮図と言われますが、そのとおりだと思います。いい人との出会いが絶対に必要で、自分一人での成長には自ずから限界があります。日頃の準備と努力の成果は必ず出てきます。ゴルフでも、いくら練習してコースに出たとしても、バーディが欲しい欲しいと思っているだけでは決してバーディはきません。ダブルボギーをうたないように必死でボギーで我慢し、なんとかパーを拾っているようなとき、なにかの僥倖のようにバーディがくるものです。運だけを求める人に運が来ないのと同じことだと思います。必死で前向きに努力しない人には幸運の女神はほほ笑みません。ただ、ゴルフの女神は、いたって気まぐれで意地の悪いところがあるので、くれぐれも用心してください。短気を起こしてくさらず、その日のプレーを楽しんでください。少し長くなりましたが、私のゴルフに対する追憶でした。

弁護士と依頼者の関係

1、致知出版社から毎月発売されている「致知」という雑誌がある。人間学をメインテーマにした堅い雑誌であるが、2016年上半期の実売部数は11万3000部を超えており、週刊大衆や週刊ダイヤモンドよりも多く、週刊女性にも勝るとも劣らない実売部数である。その「致知」の2016年10月号から、童門冬二氏による「小説 徳川家康」の連載が始まっている。徳川家康は、描く人によっていろいろな人物像があるが、竹千代と呼ばれた少年期に今川義元の下で人質として生活しており、その折に今川義元の師僧であった太原雪斎の薫陶をうけたことは有名である。太原雪斎は、竹千代は将来今川義元より大物になると見込み、古代中国の唐の二代目皇帝太宗が侍臣といろいろな課題について対話した問答集である「貞観政要」を特に選んで講義したという。その中でも「君(治者)と人民との関係」について述べられたところを何度も繰り返し講義したそうである。

 

2、それは次のような文章だ。「古語に云う、君は舟なり、人は水なり。水は能く舟を載せ、亦能く舟を覆す」というである。この件を、雪舟は家康に対して、「君すなわち治者を舟に例え、治められる人民を水に例えている。したがって、治者が良い政治を行っていれば、人民は何も言わずに波も立てない。逆にその治者すなわち舟を支えてくれる。しかし治者が一旦悪政を行えば、水すなわち人民は怒って波を立て、場合によっては治者である舟をひっくり返してしまう。これを聞いた唐の太宗はいたく感動し、なるほど、水は実に恐ろしい存在だという感想を漏らした。人民は単に愛すればよいというわけではなく、常に恐るべき存在だという緊張感を持つということだ」と説き、家康も「民は愛すべき存在だという考え方と同時に、恐るべき存在だという認識を持った唐の太宗は、やはり的確に人民の性格を見抜いている」と感じたという。

 

3、この「貞観政要」の件は、「君と人民の関係」、すなわち「治者と被治者」のことを述べたものだが、戦国大名の時代においては「主人と家臣」の関係に置き換えられるが、現代においては、「事業者と消費者」の関係や、「専門家と依頼者」の関係に置き換えることができるであろう。もっと言えば、「男と女」や「夫婦」の関係についてもあてはまるかもしれない。弁護士としても、「専門家と依頼者」すなわち「弁護士と依頼者」の関係について、この「貞観政要」の件の言わんとするところを日々噛みしめながら対応していかなければならないものである。

当世弁護士事情

1.平成11年7月から本格的に始まった「司法制度改革」は、平成21年5月の裁判員裁判の実施によって一段落した。その間、平成16年11月までの3年間に、20本を超える法案が成立し、裁判の迅速化、法科大学院1.(ロースクール)、労働審判、日本司法支援センター(法テラス)、新司法試験、弁護士広告解禁などが実施されてきた。いま、この中で一番問題が出てきているのが、法曹養成に関する法曹人口の増加である。法科大学院設立当初の目標であった司法試験合格者数年間3000人には遠く及ばず、ここ数年約2000人前後であったものが、弁護士の就職難、経営難もあって法科大学院入学希望者が減少し、政府も当面1500人を目途とせざる得なくなった。平成10年に16000人余りであった弁護士人口は、平成28年4月現在37000人余りと倍増している。

 

2.そこで当世弁護士事情であるが、「司法制度改革」が始まった平成11年頃は、紹介者からの口コミはもちろんとして、弁護士会の法律相談センターは大盛況で新件受任がかなり見込まれていたのに対し、現在は閑古鳥が鳴いており、担当日に0件のこともある。これは、弁護士広告解禁とインターネットの普及により、各弁護士事務所が工夫を凝らしたインターネット上の無料法律相談を窓口にして、新規の顧客獲得に努力しているからであり、裁判所の事件数も減少傾向にあることからもわかるように、弁護士の収入に結びつくような需要(パイ)がとりたてて増えていないことも原因であろう。

 

3.先日、福岡で行われた「ウェブマーケティング」のセミナーに参加してみたが、「時代は変わった。積極的に打って出なければ客はこない。」ということを再認識させられた。関東圏や大阪ではかなり高度な広告戦略が行われているが、地方に行けば行くほど発展途上であり、十分に効果を見込めるとのことである。極端な話、開業1年目の弁護士でも、やり方次第ですぐに新規顧客を獲得できるとのことである。もっとも、それなりの経費はかけなければならず、売上の1割は常識だそうである。具体的には、即効性のあるものが「○○弁護士ナビ」などのポータルサイトと呼ばれるものであり、中長期的なものが専門性のあるホームページの立ち上げで、両者を併用することによって確率を高めることができるそうである。

 

4.私も実際にやってはいるが、なかなか思うような効果が望めていない。課題は、どのような専門性を打ち出すかであるが、どうにも欲が出て、あれもこれもとなってしまう。しかし、最近の法律専門書の出版事情を見ても、かなり専門に特化したものでないと売れていないことからもわかるように、専門特化の傾向は否めないのであろう。。地方においてはまだそれほどではないが、なにかほかの弁護士とは違うところをアピールしていかなければ生き残れない時代になってきたことだけは間違いのない事実である。

少年事件と報道の自由

1、はじめに

 この問題については、少年法61条が少年の氏名等の身元を特定する情報の公表を禁止していることから、次の事件での週刊誌の報道が問題となった。平成6年の一連の殺人事件(長良川リンチ殺人事件)(①事件)と平成10年1月の堺市通り魔殺人事件(②事件)である。0それぞれの事件について、週刊誌の報道がどこまで許されるかが問題となったものである。以下、それぞれの事件の概要を述べたうえで、裁判所の判断を踏まえてどのように考えるべきかについて述べてみる。

 

2、事件の概要

 ①事件は、当時18歳であった少年は、当時19歳であった別の少年とともに、大阪市の路上を通行中の青年にいいがかりをつけ、たまり場となっていたマンションの一室に連れ込んだうえで暴行を加え、殺害し、死体を毛布に包んでガムテープで固定し高知県安芸郡の山中に遺棄し(大阪事件)、また、愛知県稲沢市で、いずれも19歳の他の少年とともに青年に暴行を加え、愛知県木曽川祖父江緑地公園駐車場まで連れて行ってさらに暴行を加え、さらに尾西市の木曽川左岸堤防上で頭部等をカーボンパイプで殴打するなどの暴行を加えて瀕死の重傷を負わせたうえで河川敷にけ落とし、河川敷の雑木林内まで両手足をもってひきずって遺棄して立ち去り、その青年を死亡させて殺害し(木曽川事件)、さらに、金品を奪うために、他の少年らと共謀のうえ、三人の青年を自動車に監禁して連れ回し、暴行を加え、そのうち二人については長良川右岸堤防東側河川敷で金属製パイプで頭部等を殴打して死亡させ、もうひとりについてはコンビニの駐車場に駐車中に金属製パイプで頭部等を殴打し頭部外傷等の傷害を与えた(長良川事件)というものである。

 また、②事件は、大阪府堺市において、シンナー吸引中に幻覚に支配された少年が、文化包丁をもって、登校途中の女子高生を刺して重傷を負わせたあと、幼稚園の送迎バスを待っていた母子らを襲い、逃げまどい転倒した5歳の幼女に馬乗りになって背中を突き刺して殺害し、さらに娘を守ろうとしておおいかぶさった母親の背中にも包丁を突き立てて重傷を負わせたというものであり、いずれの事件も凶悪重大な事件である。

 

3、裁判所の判断

 そこで、それぞれの事件について、裁判所の判断の経過を見ていくこととする。まず、①事件については、一審の名古屋地方裁判所は、名誉棄損の成立は否定したが、プライバシーの権利の侵害について、仮名は用いられているが、本名と音が類似しており、原告の同一性は隠蔽されておらず、さらに記事の経歴や交友関係などにより原告と面識のある不特定多数の読者はそれが原告のことであると容易に推知できるとし、本人と推知されない法的利益よりも明らかに社会的利益の擁護が強く優先される特段の事情があったとは認められないことから、不法行為を構成するとして、慰謝料30万円の損害賠償を命じた。控訴審の名古屋高等裁判所も一審の結論を維持したが、理由中の判断において一歩踏み込み、少年法61条を権利保護規定と位置づけた上、成長発達権なるものを少年にとっての基本的人権の一つと観念できるとした。しかし、最高裁判所は、少年法61条違反の推知報道かどうかについては、判断基準をあくまでも「不特定多数の一般人」として否定し、成長発達権については審理の対象から除外した上で、もっぱら名誉棄損・プライバシー侵害の違法性阻却事由の有無についてさらに審理を尽くさせるため、名古屋高等裁判所に破棄差戻をした。そして、差戻し後の名古屋高等裁判所は、少年時の犯行だからといって直ちに公共の利害に関する事実は否定されないとして、一審判決を取り消し、損害賠償請求を棄却した。

 つぎに、②事件については、一審の大阪地方裁判所は、本件が悪質重大な事件で社会一般に大きな不安と衝撃を与えたことを認めながらも、原告が現行犯逮捕され、さらなる被害を防ぐために社会防衛上氏名等を公表する必要がある場合ではなく、本件事件の態様の悪質性、程度の重大性や社会一般の関心をもってしても、原告の氏名等を公表されない利益をうわまわるような特段の必要性があったとは思われないとして、慰謝料等250万円の損害賠償を命じた。しかし、控訴審の大阪高等裁判所は、一審を覆す判断を下した。まず、大阪高等裁判所は、プライバシー権、肖像権、名誉権を侵害された場合には不法行為となりうることを認めたが、憲法21条の保障する表現の自由とプライバシー権等との調整においては、表現の自由の憲法上の優越的地位を考慮しながら慎重に判断しなければならないとし、「表現行為が社会の正当な関心事であり、かつその表現内容・方法が不当なものでない場合には、その表現行為は違法性を欠き、違法なプライバシー権等の侵害とはならないと解するのが相当である。」とした上で、犯罪容疑者についても、犯罪の内容・性質にもよるが、犯罪行為との関連において、そのプライバシーが社会の正当な関心事になりうるとした。また、プライバシー権の侵害とは別に、みだりに実名を公開されない人格的利益が法的保護に値する利益として認められるのは、「その報道の対象となる当該個人について、社会生活上特別保護されるべき事情がある場合に限られるのであって、そうでない限り、実名報道は違法性のない行為として認容されるというべきである。」とした。そして、少年法61条については、刑事政策的配慮に根拠を置く規定であるから、少年時に罪を犯した少年に対し実名で報道されない権利を付与していると解することはできないとした。そのうえで、本件は被害者および犯行現場の近隣にとどまらず、社会一般に大きな不安と衝撃を与えた事件であり、社会的に正当な関心事であったと認められるとし、本件記事の表現内容・方法の不当性については、無罪推定の原則などに照らし、犯罪報道については匿名であることが望ましいが、他方で被疑者等の特定は犯罪ニュースの基本的要素であって犯罪事実と並んで重要な関心事であるから、少なくとも凶悪重大な事件において現行犯逮捕されたような場合には、実名報道も正当として是認されるとした。そして本件の場合きわめて凶悪重大な事件であり、原告が現行犯逮捕されていること、なんの因縁もないのにもかかわらず無残にも殺傷された被害者側の心情も考慮すれば、実名報道をしたことが原告に対する権利侵害とはいえないとしたものである。これに対し元少年は上告したが、その後、自ら上告を取り下げた。キリスト教の牧師と交流して「許してもらわなければいけない自分が相手を許さないのは間違っている」という心境に達したからだと伝えられる。しかし、成長発達権の理念を掲げて提訴を勧め、訴訟活動を続けてきた弁護士に事前の相談もなく取り下げたことが、人間としての成長発達の証としてどの程度評価できるか、また、何が少年の成長発達を支援することになるのかを考えさせられる事案である。(以上、松井茂記「少年事件の実名報道は許されないのか」日本評論社 2000年11月、飯室勝彦「事件報道に大きな影響を与える長良川事件・最高裁判決」法学セミナー No.582 109頁 2003年6月 参照)

 

4、どのように考えるべきか

 少年法61条を権利保護規定と考えるか、刑事政策的規定と考えるかということから結論が出る問題ではなく、一般社会生活との関係で、犯罪を犯した少年の更生にとって何が求められるかということから考えなければならない問題である。この問題は、犯罪を犯した少年の犯罪時の年齢、生育環境や犯行時の家庭環境、犯罪に至った動機、犯罪の態様や結果の凶悪性・重大性、犯罪後の行動、被害者感情や社会一般の受け止めや社会に対する影響などから、個別具体的に考えていかなければならない。

 近時、18歳から選挙権が認められ、民法の成人年齢も18歳に引き下げるかどうか議論があることからも、人の生命や身体にかかわる重大事案に限り、18歳からは犯人の推知報道も原則として許されると解すべきではないだろうか。そして、18未満については、少年法61条をできるだけ尊重するかたちで、事件の内容を個別具体的に検討したうえで考えることになるであろう。

 この点、神戸市須磨区で平成9年に起きた児童連続殺傷事件から今年で19年になるが、当時14歳だった元少年が昨年手記を出版したことに関連し、被害者土師淳君(当時11歳)の父親の守さんが、「加害男性への教育は何の意味もなかった」と心境を吐露していることをどのように受け止めるべきか、われわれにとって重い課題である。

 

 

 

正しい質問

高校までの教師は生徒に答えだけを教えている。学ぶ方法は教えてくれない。学ぶ方法、すなわち、どのように考えるのか、もっと遡れば、何を考えるのか、課題の設定の仕方、正しい質問の仕方は教えてくれない。大学予備校、大学、大学院でやっとそのような教え方がでてくるような気がする。「今の時代、答えはたんなるコモディティにすぎないというのに。将来は、正しい質問をすることを教育の中心に据えるべきだろう。」「社会に出て、同僚と話し合いながら問題に取り組めば協働(コラボレーション)となる。何かがおかしくないだろうか。なぜ、適切な質問を探すことに重点が置かれないのだろうか。質問さえ正しければ、答えを出す方法はいくらでもある。」(ムーンショット! ジョン・スカリー著 川添節子訳 パラボラ 2016年2月 211頁)。まさに同感である。人工知能は自動的に答えを出してくれるが、その答えのための質問を設定し、その答えからなんらかの判断をして決断を下すのは人間である。ちなみに、「ムーンショットとは、シリコンバレーの用語で、『それに続くすべてをリセットしてしまう、ごく少数の大きなイノベーション』のこと」で、「最近の消費者は、アマゾンを始めとしたさまざまなサイトから、商品やサービスの価格や評価の情報をリアルタイムで入手できる。また、フェイスブックなどのソーシャル・メディアを通じて常に友達とつながっている。その気になれば、世界中のどこでも、すぐに人を集めることができる。史上最高のムーンショットともいうべき、こうした動きが生産者から消費者へのパワーシフトを加速させている。顧客へのパワーシフトは、起業家にとって未曾有のチャンスとなるだろう。同時に、伝統的な産業にとっては崩壊の始まりとなるかもしれない。」(前同書6頁、57頁)ということは、どの業界においても重く受け止めなければならない。なににつけ、正しい質問、自分の中では正しい問題の立て方がうまくできないために、考えがすすまなくなることがよくあるので、問いを問い直す力も必要になってくる。「数学でかつて、定規とコンパスだけを使って、角を三等分しなさいという問題が出されたことがあります。この問題は長きにわたって誰も解けなかった。するとある人が、そもそもこれはできないことだと証明したのです。解けない問題にみんなが挑戦していたわけです。そういうことが自分の中でも起こる可能性はあります。」(【インタビュー】はたして、論理は発想の敵なのか 野矢茂樹 DIAMOND ハーバード・ビジネス・レビュー 2016年4月号 93頁)ということである。

裁判官の評議の秘密

これまでずっと疑問に思っていたことがあった。それは、平成19年3月、裁判所法第75条の「評議の秘密」のルールを破り、袴田事件の元主任裁判官熊本典道氏(当時70歳)が、実は無罪の心証を持ちながら死刑判決文を書いたことを公にし、この告白が海外メディアでも大きく取り上げられたことに対し、最高裁が対外的なコメントを控え、沈黙を守っていることである。ちなみに、袴田事件とは、昭和41年に静岡県旧清水市で一家4人惨殺事件が発生し、当時プロボクサーだった袴田巌氏が逮捕、起訴され、死刑判決によって死刑囚(平成26年3月再審無罪により48年ぶりに釈放)となった事件である。

 熊本氏は、司法試験をトップで合格し、裁判官としてエリート街道を進むはずであったが、昭和41年12月に静岡地裁に赴任させられ、袴田事件を主任裁判官として担当したことからその人生は大きく変わることになる。昭和43年9月に言渡された判決について、熊本氏は、審理の後半で無罪を確信し、合義に際して無罪判決を起案したが、裁判長と右陪席を説得できなかったため、結局、怒りに震え泣きながら矛盾に満ちた350枚の死刑判決を書くことになった。せめてもの抵抗として、熊本の印鑑は自ら押さず、書記官が押したが、このとき職を辞す決意ははすでに固まっていた。熊本氏は、昭和44年4月依願退官し、弁護士となった。その後の熊本氏人生は、年収1億円を稼ぐ売れっ子弁護士の時期もあったが、家庭的な問題もさることながら、袴田事件の死刑判決で「私は人殺しも同然です」と自責する重い十字架を背負ったことによって、家族も家も金も失い自殺を試みるまでに転落することになる(その間の詳細については、尾形誠規著 「美談の男」2010年6月 鉄人社をお読みください)。

  ところで、最近、冒頭の疑問に対して丁寧に説明してくれた書籍に接した。元裁判官渋川満氏の近著「裁判官の理想像」(2016年2月 日本評論社 210頁から212頁 )である。要約すると、熊本氏の発言には2つの問題があり、1つは裁判所法第75条の評議の秘密の定めに違反するのではないか、もう1つは合議と裁判官の良心・独立の関係で少数意見の裁判官にとり良心・独立に反しないか、ということである。そして、熊本氏の発言は、評議の秘密の定めに明らかに違反するが、裁判官は一般職国家公務員と異なり、評議の秘密違反行為に罰則の定めも、退職後の秘密遵守義務の定めもない(国家公務員法第2条3項13号、同5項、同第100条1項、同第109条12号)。在官中なら懲戒(裁判所法第49条)または罷免(裁判官弾劾法第2条)の事由になりうるが、退職しているのでこれを行うのも無理。評議の秘密規定の制度趣旨は、裁判官の合議における自由な発言の保障であって裁判の威信を守ることではないが、合議は裁判の信用に深く関わるから、その内容を公表する発言は相当ではない。また、合議は、裁判官が常に良心に従い独立して意見を交わすことを基礎とし、これに基づき知識経験を補完して合議体としての裁判所の客観的な一つの意思にまとめ上げる仕組みであるから、裁判官の良心・独立に抵触することはないと考えられているが、少数意見の裁判官にとり良心・独立に反しとうてい看過できないとしたら、その評決に至る前に,回避(刑訴規則13条)などによりその合議体の構成からはずすよう求め、困難のときは、自ら退く(裁判官分限法第1条)ほかないように思う、ということである。

 しかし、有罪であれば死刑しかありえない重大事件において、病気などやむを得ない理由以外で合議体の構成からはずれることは、職務の放棄と見做されかねないし、そのような異例の事態は、判決前に結果を公表するに等しくなるのではないか。法律の規定上からはともかくとして、現実的にはあまり説得力はないように思われる。また、人命は地球より重いのであれば、無罪を確信した死刑囚の再審無罪に退官後に助力することも人道上許されるのではないか。この問題は難しいので改めて考えてみたいと思う。

 

 

弁護士のマーケティング

 一昔前と違って弁護士の人数が増えたことから、弁護士のほうから積極的に依頼者を誘引していかなければならない時代になっている。そこで弁護士も法律の知識だけでなく、マーケティングを勉強しなければならない。売れて儲かるロングセラーを生み出す名人である梅澤伸嘉氏によれば、ロングセラーを生むための3つの条件は、①買う前に欲しいと思わせる「商品コンセプト」と、もう一度買いたいと思わせる「商品パフォーマンス」が両立している商品は長く売れ続ける、②「強いニーズがあること」と「そのニーズを充たす手段がないこと」、この2つを充たす「強くて、未充足のニーズ」に商品が応えたとき、消費者は無条件でその商品を「欲しい」と思う、③新しい市場を創造した商品は、後発商品の100倍の確率で成功する、とのことである。

 この3つの条件を弁護士のマーケティングにおいて考えると、①相談してみたいと思わせる「わかりやすい専門性」と、依頼したいと思わせる「信頼性と納得」の両立、②相談したい問題がある時に、ちょっと相談してみようと思わせる案内窓口、③これまで議論されてきたことだけではなく、こういう新しい問題が起こったらどのように解決するか、あるいは、誰もが避けている問題をどう考えるかということをわかりやすく提示すること、というふうに考えてみたがどうであろうか。①と②は、誰もがインターネットなどの広告媒体でいろいろな形で模索しているが、まだまだ改善の余地はあると思う。③がわかりにくいが、要は誰もやっていないことを人に先駆けてやるということであろう。ある意味興味深い問題であるが、厳しい生存競争の時代になってきたものである。

同一労働同一賃金

労働人口の4割が非正規雇用といわれている。長期雇用の保障がなく、年収も200万円にも満たない場合もある。正規雇用である正社員との格差は歴然としている。同じことを同じだけやっているにもかかわらず、これだけの差がでるとすれば、それはなぜであろうか。正社員が、長時間労働、転勤移動、部署替えなどをなんらの異議なく受け入れているからであろうか。高度成長期であればこのようなことも言えたであろうが、世界的な低成長の現在にあっては、これだけの差を説明することは難しくなっている。そこで、同一労働同一賃金という考え方に基づいて是正しようとしているのであろう。しかし、職務給についてはこの原則があてはまるとしても、職能給についてどの程度妥当するかは問題である。職務給についても成果に差は出てくるが、職能給については、仕事の成果にかなりの差が出てくるからである。人事考課が必要となる所以である。したがって、厳密に言えば、同一価値労働同一賃金というべきであろうが、この「価値」の評価が難しく、人事考課をめぐっていつも問題となるものである。この「価値」の評価が客観的に適正に実施できるのであれば、同一労働同一賃金は意味を持ってくる。

 現在の正社員の賃金を基準に同一労働同一賃金という考え方に基づいて是正しようとすると、非正規雇用者の賃金を大幅に上げざるを得ないことになるが、そうすると全体の賃金コストが上がってしまい、企業の利益を圧迫することになる。全体の賃金コストを上げないで非正規雇用者の賃金を是正しようとすると、正社員の賃金をどのように組み替えるかということになる。働き方も多様になってきていることから、正社員の中でも多様性を持たせていき、いわゆる「限定正社員」を作って多様性を持たせることになる。新卒一括採用、年功序列、終身雇用という雇用慣行も見直す必要があることから、この機会になんらかの抜本的な対策を講じておく必要がある。

 最終的には、転職市場を活性化したうえで、解雇法制を緩和し、労働者と使用者が労働契約を明確化して、適度な緊張感を持って協働していかなければならないであろう。そのためには、労働者も使用者も日々スキルを磨いていかなければならない。

民法改正について

今回の民法改正法案は、債権法についてのものであるが、かなり大幅な改正であることから、実務家としては十分に準備してかからなければならない。消滅時効が原則5年になることや、法定利率が3パーセントを基準にした変動制になることのほか、当事者の意思に基づく契約責任が前面に押し出されたものとなっている。瑕疵担保責任が、法定責任ではなく契約不適合責任すなわち債務不履行責任と位置付けられたことがその典型である。また、契約責任についても、「責めに帰すべき事由」という文言は残ってはいるが、従来の考え方とは違って、手段債務と結果債務という考え方から、手段債務についてはやむを得ない事情により免責されることはあるが、結果債務については不可抗力以外は免責されないことになる。当事者の意思以外に、取引の実情が考慮されることから、当事者の意思解釈といっても、より客観的なもの、規範的なものになっていくであろう。定型定款の規定も新設されたが、定型取引が前提となることから、銀行取引約定書のように定型取引からはずれるものは、従来の約款論にもとづいて解釈されることになる。定型定款の規定については、法案の段階で入ったことから、十分に練られたものでない印象が強く持たれる。

 私事であるが、民法改正についてのセミナーにはこれまで積極的に参加してきている。一番参考になったのは、昨年の春から秋にかけて全21回にわたって開催された明治大学の寄付講座である。いろんな教授の講義が聞けて相当勉強になったが、中でも元裁判官の加藤新太郎中央大学教授の講義は出色であった。実務にもとづく話には説得力があり、語り口も軽妙で、一瞬ではあるが落語を聞いているような錯覚に陥った。その話の中で、「民法学を語る」(大村敦志、小粥太郎著 2015年11月初版 有斐閣)の一節を引用して、現在の学生と学説は「別居」状態にあるということが印象に残ったので、さっそく買い求めて読んでみた。なるほどなと思った。司法制度改革によって法科大学院が発足したことで、法学教授たちの仕事の重点は研究から教育へとシフトし、債権法改正の動きが現実化したために、それは解釈から立法へとシフトした。そのため、あるべき法を求めて民法の解釈が更新されていくということが現実離れし始めているということである。確かに、昔の学生時代のように物権変動論を論じることもなくなり、学説の影が薄くなっているような気はする。吉田邦彦北海道大学教授が判例時報(2270号3頁)に寄稿された論説も同様の趣旨であろう。時代の流れと言ってしまえばそれまでであるが、なにか寂しい気がする。最後に、全21回出席して修了証書をもらったことを付け加えておきます。

コーポレートガバナンス経営

安倍政権の成長戦略に合わせるかたちでコーポレートガバナンス・コードとスチュワードシップ・コードが採択され、伊藤レポートでROE8パーセントが打ち出された。攻めのガバナンスで稼げということである。株式の持ち合いは解消されることになり、経営執行部により権限を委譲して迅速な経営判断をを求めることになる。経営執行部の責任は重くなるが、短期的な数字による成果だけでなく、中長期的な経営戦略に照らして監督および評価をしていかなければならなくなる。その際の会社の機関設計はどのようなものでもよく、その会社に見合ったものであることが説明できればいいことになる。問題は中味の運用であり、できるだけ透明化していくように心掛けなければならない。

 言うまでもなく株主資本は他人資本であり、借入金のよう返済義務はないが、株主資本コストとしての配当が必要となってくる。株主の関心は配当とともに株価であり、一時期、株主価値の最大化が叫ばれた所以である。必要以上の内部留保がある場合は、配当、自社株買い、設備投資を考えなければならない。しかし、市場環境は非常に厳しいことから、中長期的な経営戦略をこそ取締役会で時間をかけて議論していかなければならない。コーポレートガバナンス経営にとって取締役会の活性化は急務である。

ページ先頭へもどる